英国自転車事情 Bicycle in the UK

滑り台を駆け上がった時、公園の入り口に中年の男が立っているのに気付いた。周りの子供たちはその男をいぶかっていたが、僕はその人を良く知っていたので、近寄っていった。「どうしたの?」と尋ねると、父はにんまりと笑って、それを見せてびらかした。
父から教わった事を思い起こすのは難しい。いつだって仕事から帰ってきて寝るまでする事といえば、ビールを飲みながら野球中継をみるぐらい。休みは朝から新聞を読んだり、ごろごろしたりで、外につれていってもらったことはほとんどない。ただそんな父から一つだけ学んだことがあった。自転車の乗り方である。
公園にやってきた父は、買ったばかりのウルトラ兄弟の自転車を僕に見せたかったのだ。しかし父のチョイスは大きく的を外れていた。僕は戦隊ものが好きで仮面ライダーでいえばブラックやRXの世代なのだ。いってみれば自分より若い世代の人たちとのカラオケでZOOのCHOOCHOO TRAINを歌うようなミスチョイスなのである。
現代の都市生活にとって、最優位となる移動手段は公共交通機関である。乱暴な言い方をすれば、僕にとってロンドンでのマイカーは週末にIKEAにミートボールを食べにいくためのものでしかない。ただ自転車だけは、常に僕にとっては特別だったのだ。
24歳の夏、中国東方に僕はいた。自転車で北京を出発し、東北三省を1周する予定だった。承徳という町から豊寧満族自治区まで、約120キロの旅程だ。長距離で自転車に乗ることは、自分の限界がわかる。普段運動もしてないと、40キロあたりで足が痙攣する。こげなくなる。自転車からおりてゆっくり歩きながら体力の回復を待つ。またこぎ始める。
途中タイヤのパンクがたて続けておき、修理に時間をとられてしまった。日が落ちた暗い山中を自転車でさまよう。近くの村に向かうには延々と続くトンネルには新説にオレンジの照明などない。夜間の自転車走行が危険であるという認識はあったので、もともと16時頃で旅程を切り上げていた。そのため懐中電灯すら用意していなかった。
終わりの見えないトンネルにただただ畏怖し、トンネルの前で野宿も考えたが森の中から鳴き声だけで主張する野生動物が今にも襲い掛かってきそうだった。暖かいベッドと食べ物が欲しい。そんな思いで明快に続く漆黒の風穴に渋々と足を踏み入れる。携帯電話の液晶から出る光を壁に垂らしても、道と壁の輪郭がぼんやりと示されるだけだ。自転車をこいで200メートル中に進む。入ってきた入り口を振り返ると、入り口から見えていたはずの星の僅かな光が消えていた。進むにも戻るにも、入り口も出口も見えない。出口が前にきっとあるはずだという信念が足を前に運ぶ。方向感覚がおかしくなり、バランス感覚がなくなってくる。自転車からおりで歩き出す。前方はあらゆるひかりを吸収する緞帳、完全黒体のようだ。自分が前方だと思っていた方向が、疑わしく思えてくる。そんな時背後からかすかな音が聞こえた。音がだんだん大きくなってくる。二つの光が大きくなり、それが車であると気づいたとき、自分の死を覚悟した。
幸いにも運転手は、田舎の長いトンネルの中にあった物体に気付いたらしく、クラクションを鳴らし通り過ぎていった。やがて前方に白い点が現れ、それが自分の歩みとともに大きくなる。ああこれが出口なのかと思ったとき、いま自分がたっているここに、生命があったことをはじめて自覚する。
車の免許を取るという行為は、都会に住むと決めた僕自身に対する後ろめたさをともなるものであり、それが自分から自転車を奪うかもしれないということにも気づいていた。だがロンドンに決めるために、ビザの申請で一か月ほど何の予定もなく実家に滞在することになり、暇つぶしに自動車学校に通った。その後ロンドンで免許が必要な不動産会社に勤めることになったのである。
ロンドンの中心部では、かつての市長ボリス・ジョンソンが設置した、ボリスバイクがあり、さらにMOBIKEなどのシェア自転車が出てきた。
登録は銀行のデビットカードさえあれば簡単だが、MOBIKEはアプリのダウンロードが必要で、駐輪できるエリアが決まっている。ボリスバイクはメンバーになるのには鍵の登録料に3ポンドかかる。さらに使用した時間に対して料金が加算される。使用料は一日で1ポンド、一週間で5ポンド、一年で45ポンドの三種類から選択可。さらに使用した時間に対して料金が発生し、30分以下は無料、1時間以内は1ポンド、一時間半以内は4ポンド、二時間以内は6ポンドになる。とりあえず試したいということであれば、30分以内にドッキングポイントに返却し、少し休んでまた自転車に乗るということを繰り返せばその日は1ポンドだけでお得である。
運動不足で体がだるい。今日は珍しく早く仕事が終わった。そういう時は自転車で家にかえろう。