山田さんロンドン、シティにあるオフィスの移転をします。現在のオフィスを大家に返すためどのくらい状態復帰の義務がありますか。
英国で商業物件を扱う際、大家にとってもテナントにとっても最も頭を悩ませ、かつ金銭的なリスクが潜んでいるのが修繕特約です。契約書にサインをするその瞬間から、物件の維持管理に関する法的な義務が発生します。多くの人々は、単に壊れたものを直せばよいと考えがちですが、英国法における修繕の意味はそれほど単純ではありません。この記事では、ページ順に資料を紐解きながら、修繕特約の法的な定義、責任の所在、そして紛争時の解決策について、実務的な観点から包括的に解説していきます。
商業リースの種類と修繕責任の所在


まず理解すべきなのは、すべての商業リースが同じではないということです。しかし、英国の商業用不動産市場において圧倒的に一般的な形式が存在します。それがFRIリース、すなわち完全修繕保険付きリースです。もしテナントが建物全体を借りている場合、通常はこの形式が採用されます。
FRIリースにおいて、テナントは建物のあらゆる部分に対して責任を負います。これには主要な構造部分、ボイラーや空調設備などのサービス設備、そして内装や装飾までが含まれます。機関投資家や年金基金などの大家がこの形式を好む理由は明確です。物件の維持管理にかかるすべての責任とコストをテナントに転嫁できるからです。これにより、大家は純粋な投資収益を確保しやすくなります。
一方で、テナントが建物の一部のみを占有する場合、例えばオフィスビルの一室やショッピングセンターの一区画を借りる場合は、内部修繕リースという形式が一般的になります。このシナリオでは、テナントは自身の専有部分、つまり内装や建具、店舗の正面ガラスやドアといった非構造部分に対してのみ直接的な修繕義務を負います。建物の主要構造や外装、共用部分については大家が責任を持ちますが、その費用は共益費としてテナントに請求されることが一般的です。これを実質的FRIリースと呼びます。つまり、形式上は責任が分担されていても、金銭的な負担は最終的にテナントに回ってくる構造になっているのです。
FRIリースは英語で full repairing and insuring lease と言い、建物のすべての修繕、維持、装飾に対してテナントが責任を負う契約形態であり、FRI lease として知られています。
修繕の定義と判例による解釈


契約書に修繕という言葉があれば、それが何を意味するかは明白だと思うかもしれません。しかし、法的な争いの多くは、ある作業が修繕に当たるのか、それとも改良や更新に当たるのかという点に集中します。
裁判所は長年にわたり、この問題に対して常識的なアプローチを採用してきました。特定の建物について、リース開始時の状態や契約条件を考慮し、求められている作業が公正に修繕と呼べるかどうかを判断するのです。ここで重要なのは、修繕という言葉が文脈によってその意味を変える可能性があるということです。
リース契約でよく見られる表現に、1️⃣修繕状態にする、2️⃣修繕状態を維持する、3️⃣修繕状態で明け渡すという三つのフレーズがあります。これらは似て非なる義務を課します。1️⃣修繕状態にするという文言が含まれている場合、テナントはリース開始時にすでに壊れていた箇所さえも直さなければならない可能性があります。2️⃣修繕状態を維持するという表現は、契約期間中常にその状態を保つことを要求します。一方で、3️⃣修繕状態で明け渡すという表現であれば、契約終了時に物件が荒廃していなければ義務違反にはなりません。
また、自然損耗を除くという特約がある場合、風雨による経年劣化や通常の使用による摩耗についてはテナントの責任が免除されます。しかし、この例外規定がない限り、テナントの負担は重いものとなります。
修繕と改良の境界線


ここで一つの疑問が生じます。古い建物を修繕する際、現代の材料を使ったらそれは改良になるのでしょうか。この点について、英国の裁判所は興味深い判断を下しています。
ある古い倉庫の例を考えてみましょう。その倉庫の屋根は波形のアスベストセメント板でできていました。修繕が必要になった際、この危険な古い材料を同じもので置き換えることは現実的ではありません。そこで、現代的な成形鋼板に交換することになりました。材料は新しく、性能も向上しています。これは改良でしょうか。裁判所の判断によれば、これは修繕の範疇に入ります。なぜなら、そこにあって摩耗してしまったものを交換しているに過ぎないからです。
しかし、もしその倉庫の壁に防湿層がなく、湿気が原因で壁が崩れていたとします。このとき、新たに防湿層を挿入する工事を行った場合、それは建物に以前は存在しなかった機能を追加することになるため、修繕ではなく改良とみなされます。テナントは通常、物件を改良する義務までは負っていません。居住者の利益のために何か新しいものを提供することは改良であり、既存の老朽化したものを交換することは、たとえ現代の同等品を使ったとしても修繕なのです。
同様に、建物全体の実質的な更新となるような大規模な工事も、テナントの修繕義務の範囲を超えます。ただし、建物の一部、すなわち従属的な部分の更新であれば、それは修繕に含まれると判断されます。例えば、古い家の正面の壁が危険な状態になり、再建が必要になったケースでは、壁全体の作り直しが必要であっても、それは家全体から見れば一部であるため、修繕の一環としてテナントの負担とされました。
固有の欠陥という落とし穴


多くのテナントが誤解しているのが、建物に固有の欠陥がある場合です。建物自体の設計ミスや施工不良による欠陥については責任を負わなくて良いと考えがちですが、必ずしもそうではありません。
判例によれば、固有の欠陥があっても、それによって実際の損傷が発生していない限り、テナントはそれを是正する義務はありません。例えば、地下室の防水工事に欠陥があり浸水したが、特に実害がなかったケースでは、テナントは防水工事をやり直す必要はないとされました。
しかし、もしその欠陥が原因で壁や床に損傷が生じている場合は話が別です。その損傷を直すために、根本的な固有の欠陥を是正するしか方法がないのであれば、テナントはそれを行う義務を負います。たとえその作業によって物件が元々の状態より良くなったとしても、修繕を行うために不可欠な工程であれば、テナントの負担となるのです。
大家の修繕の基準


では、どの程度のレベルまで修繕すればよいのでしょうか。その基準は、分別のあるテナントがリース開始時にその物件に期待するような状態であるとされています。これは物件の年齢、立地、性格などを考慮した相対的な基準です。新築の高級オフィスと、築古の倉庫では求められる修繕のレベルが異なるということです。
大家の修繕責任と救済措置
ここまでは主にテナントの義務について見てきましたが、大家にも責任が発生する場合があります。大家が建物の構造や共用部分の修繕義務を負っている場合、テナントから欠陥の通知を受け、合理的な期間内に対応しなければ契約違反となります。
もしテナントが修繕義務を果たさない場合、大家にはいくつかの救済措置があります。
一つ目は損害賠償請求です。ただし、これには法的な上限があります。1927年借地借家法第18条により、請求できる額は、修繕にかかる費用そのものではなく、修繕されなかったことによる物件価値の減少分が上限と定められています。もし大家が契約終了後に建物を取り壊す予定であれば、物件価値の減少は生じないため、損害賠償は請求できません。
二つ目は没収、つまりリースの強制終了です。これを行うには、1925年財産法に基づく通知をテナントに送り、是正の機会を与える必要があります。さらに、リースの残存期間が7年以上あり、3年以上残っている場合には、1938年リース物件修繕法による特別な保護がテナントに与えられます。この場合、大家は裁判所の許可なしに没収や損害賠償の手続きを進めることができません。裁判所は、建物の価値が損なわれる恐れがある場合など、特定の条件下でのみ許可を出します。
三つ目の選択肢として、多くの現代的なリース契約には、大家が物件に立ち入って自ら修繕を行い、その費用を負債としてテナントに請求できる権利が明記されています。この方法の利点は、損害賠償請求の法的な制限や複雑な手続きを回避できる点にあります。請求するのは損害賠償ではなく、契約に基づく負債の回収となるためです。
テナントの救済措置
逆に、大家が修繕義務を怠った場合、テナントはどうすべきでしょうか。テナントもまた、大家に対して損害賠償を請求できます。これには、建物の不具合による健康被害、市場価値の減少、修繕中の仮住まい費用、さらには修繕後の清掃費用などが含まれます。
また、特定履行という手段もあります。これは裁判所に訴えて、大家に修繕命令を出してもらう方法です。特に住居系ではなく商業物件では重要な手段となり得ます。
さらに強力な実力行使として、相殺権があります。これはテナントが自費で修繕を行い、その費用を家賃から差し引くというものです。ただし、これには慎重な手続きが必要です。まず大家に通知し、修繕を行うための合理的な時間を与えなければなりません。そして最も重要なのは、その修繕が本当に大家の責任範囲であることを確認することです。もし判断を誤れば、家賃滞納として逆に契約解除されるリスクがあります。
不法行為責任のリスク


契約上の責任以外にも、不法行為と呼ばれる法的な責任が発生することがあります。これは契約書の有無にかかわらず、他者に迷惑や損害を与えた場合に生じる責任です。
例えば、不法妨害があります。テナントの管理不足でタンクから油が漏れ、隣の敷地を汚染した場合などがこれに当たります。また、環境保護法に基づく制定法上の不法妨害として、公衆衛生に害を及ぼすような状態を放置した場合も責任を問われます。
過失も重要な概念です。注意義務があるにもかかわらずそれを怠り、他人に怪我をさせた場合です。例えば、煙突の修繕を怠り、崩れた破片が通行人に当たった場合、テナントは契約違反だけでなく過失責任も問われます。
さらに、毀損という古い法概念もあります。これは物件の価値を損なう行為全般を指します。木を勝手に伐採する積極的毀損、許可なく建物を変更する改良的毀損、維持管理を怠る受動的毀損、そして意図的に破壊する衡平法上の毀損があります。修繕義務を怠ることは受動的毀損に該当し、損害賠償の対象となり得ます。
ダィラピデーションと原状回復


リースの終了が近づくと、ダィラピデーション、すなわち修繕義務違反の問題が浮上します。これは商業リースにおいて最も紛争になりやすい分野の一つです。大家側の測量士は可能な限り多くの項目をリストアップし、テナント側はそれは自然損耗だと主張する、という構図が繰り返されます。
このプロセスで中心となるのが、修繕義務違反明細書です。大家は契約終了時、あるいは期間中に、物件の荒廃箇所を列挙したこの書類をテナントに送付します。これには必要な工事の費用が見積もられ、損害賠償請求の基礎となります。
ここで極めて重要になるのが、リース開始時に作成される現況確認書です。これは写真や詳細な記述で、入居時の物件の状態を記録したものです。もしこの記録がなければ、ある傷が元からあったものなのか、テナントがつけたものなのかを証明することが困難になります。テナントにとっては、入居時の状態以上に良くして返す義務はないことを証明する盾となり、大家にとっては、元通りになっていないことを証明する矛となります。
紛争を公平に解決するために、現在ではダィラピデーション・プロトコルというルールが存在します。これは裁判所の手続き規則に組み込まれており、大家とテナントの双方が合理的かつタイムリーに行動することを求めています。法外な請求をしたり、交渉を意図的に遅らせたりすることは許されません。また、当事者同士が会って解決を図ることが推奨されています。
まとめ


英国の商業不動産リースにおける修繕特約は、単なるメンテナンスの約束事ではありません。それは、FRIリースという構造の中で、建物の価値維持にかかるコストとリスクを誰が負担するかという重大な経済的合意です。修繕、改良、更新の法的な区別、固有の欠陥に対する責任の範囲、そして大家とテナント双方に認められた救済措置を正しく理解することは、予期せぬ巨額の出費を避けるために不可欠です。契約を結ぶ前には、必ず専門家による建物の現況調査を行い、詳細な記録を残しておくこと、そして契約条項が意味する責任の範囲を正確に把握しておくことが、成功する不動産経営の鍵となります。
クイズ:英国商業不動産リースと修繕特約


Q1. 英国の商業用不動産リースで最も一般的とされる、テナントが建物全体の修繕責任を負うリース形式は何と呼ばれますか?
- A. 内部修繕リース (IRリース)
- B. 完全修繕保険付きリース (FRIリース)
- C. 実質的内部修繕リース
- D. 共同管理リース
Q2. 裁判所が「修繕」の意味を解釈する際に重視するアプローチはどれですか?
- A. 辞書的な厳密な定義のみに基づくアプローチ
- B. 大家の利益を最優先するアプローチ
- C. 文脈や契約時の状態を考慮した常識的なアプローチ
- D. 常にテナントに有利なアプローチ
Q3. 古い建物の部材を現代の同等品(modern equivalent)で交換する作業は、通常どのように分類されますか?
- A. 改良 (Improvement)
- B. 更新 (Renewal)
- C. 修繕 (Repair)
- D. 拡張 (Extension)
Q4. 固有の欠陥 (Inherent defects) について、テナントが是正義務を負う可能性が高いのはどのような場合ですか?
- A. 欠陥があっても実害が出ていない場合
- B. 欠陥を直すことが実際の損傷を修繕するために不可欠な場合
- C. 欠陥が建物の美観を損ねているだけの場合
- D. 大家が是正を口頭でお願いした場合
Q5. 1927年借地借家法第18条により、大家が請求できる損害賠償額の上限はどう定められていますか?
- A. 実際の修繕にかかる全費用
- B. 修繕費用に慰謝料を加えた額
- C. 良好な状態の物件価値と現在の荒廃した状態の物件価値との差額
- D. 契約時の保証金の2倍まで
Q6. リースの残存期間が何年以上の場合、1938年リース物件(修繕)法による保護がテナントに適用されますか?
- A. 3年以上
- B. 5年以上
- C. 7年以上
- D. 10年以上
Q7. テナントが大家の修繕義務違反に対して、自ら修繕を行い家賃から費用を差し引く権利を何と呼びますか?
- A. 没収権 (Right of forfeiture)
- B. 相殺権 (Right of set-off)
- C. 特定履行権 (Specific performance)
- D. 代位弁済権 (Subrogation)
Q8. 借地人が物件の排水溝の掃除を怠り、洪水を引き起こした場合、どの種類の毀損(Waste)に該当しますか?
- A. 積極的毀損 (Voluntary waste)
- B. 改良的毀損 (Ameliorating waste)
- C. 受動的毀損 (Permissive waste)
- D. 衡平法上の毀損 (Equitable waste)
Q9. リース終了時などに大家からテナントへ送られる、修繕が必要な箇所をリストアップした書類を何と呼びますか?
- A. 現況確認書 (Schedule of condition)
- B. 修繕特約書 (Repairing covenant)
- C. 修繕義務違反明細書 (Schedule of dilapidations)
- D. 146条通知 (Section 146 notice)
Q10. ダィラピデーション・プロトコルにおいて、大家が物件を取り壊す予定である場合、修繕に関する請求はどうなりますか?
- A. 通常通り請求できる
- B. 半額のみ請求できる
- C. 修繕は時間の無駄となるため、いかなる請求も適切ではないとされる
- D. 取り壊し費用を代わりに請求できる
クイズの正解
Q1: B (参照) Q2: C (参照) Q3: C (参照) Q4: B (参照) Q5: C (参照) Q6: C (参照) Q7: B (参照) Q8: C (参照) Q9: C (参照) Q10: C (参照)









